フクシマ 民主主義への挑戦

東日本大震災の発生から5ヵ月が経過した。ほとんど損害の無かった山形県からは、多くの人的な支援が宮城県岩手県に注がれ、瓦礫撤去などの復旧活動をはじめ、現地に必要な訪問介護などの補充要員を分担で派遣するなど、もともと機能していた社会システムの中でも不可欠なものから順に一時的な補完作業が進められている。迅速さや量的な要素の向上を望む声は多々あるだろうが、大きな方向性としては、現在宮城県岩手県に向けられている支援はほぼ的を得たものだろう。それは、多くのものを失った人々を、そうでない人々が大凡元通りの生活が復旧するまでバックアップするという非常に分かりやすい構図である。

では福島県はどうだろうか。確かに地震後の津波によって瞬間的に人命や資源が奪われた地域もあった。しかしその場所の多くは福島第一原発事故による高濃度の放射線被曝を警戒すべき区域として認定された為、基本的に宮城・岩手両県のように復旧ボランティアは行かない。そうして放置されたままの沿岸は海と陸の境界が曖昧なままの、非常に特殊な様相を呈している。

そして何よりも難解な問題を生んでいるのが、放射線による低線量被曝についての対応を巡る問題である。南会津地域を除く福島県のほぼ全域がこの問題に巻き込まれており、地域社会・親族・家庭といったものの中で真っ二つに分かれて議論している。争点は、「子どもを遠隔地に疎開させるべきか否か」である。この議論の中では当然放射線のリスクに関する認識の違いをお互いに擦り合せることになる。福島市の家庭を例にとれば、年間約10msv(ミリシーベルト)の外部被曝を受ける街に住んでいて子どもに健康被害は有るのか無いのか、という話になる。仮に「被害は無い」という方を「楽観派」、「被害が有る」という方を「悲観派」と呼ぶことにする(私個人は放射線被害に警鐘を鳴らす立場をとっているから「悲観派」とは心外な呼び名だが、ここではディベートでそうするように双方を均等に扱いたい)。

福島県は「被害は無い」との立場にたち、健康被害を否定する「放射線健康リスク管理アドバイザー」を新たに常駐させた。自治体や専門家が保障してくれているという信頼感もあり、福島では「楽観派」が圧倒的に多数派を占めている。それは、県外に避難する人びとの少なさからも感じることが出来る。震災前には202万4819人が生活していたとされる福島県から、県外へ避難している人の数は行政が把握出来ている部分で今現在5万人強。この数字を単純に「悲観派」だと仮定しても全体のおよそ2.47%に過ぎない。そのうち山形県内への避難者数が6月半ばから8月半ばにかけての二か月間で約4千人増加している傾向を勘案して、福島県内に更にもう1チーム、5万人程度のボリュームで避難予備軍が潜んでいると強引に仮定したとしても4.94%に過ぎない。この概算でいくと、95.06%以上の福島県の人びとが「楽観派」として、そこに留まり続けている。つまり、「楽観派」対「悲観派」の比率は約19 : 1になる。誰もが持つ「これまで自分が形成してきた生活環境を失いたくない/郷土や人間関係を失いたくない」という気持ちが、目に見えない放射線への不安よりも上回っているということであろう。

こうした環境の中でマイノリティである「悲観派」の当面のゴールは、遠隔地への親子での避難を完了することである。しかし、これが非常に難しい。自主避難してきた友人いわく、これは徹頭徹尾差別の対象となる。「精神的に病んだ人」として扱われ、「心療内科で診てもらってこい」等と言われることもある。「悲観派」に洗脳されたのだろうという捉えかただ。そして、遠隔地へ疎開したいという話題そのものがタブーになっているという。口にしようものなら、「郷土愛に欠けた、人間味の無いエゴイスト」という烙印を押され、責められ続けるのではないか。そう考えると恐ろしくて口にできない。このストレスが大きすぎて、「悲観派」だった人が諦めと自暴自棄の心境を経て「楽観派」に変わる場合もあるという。

私は、山形市に無償の借り上げ住宅を確保して住む準備まで終えた段階の母親が、福島で親戚に囲まれて責められ、舅からは「疎開するなら離婚しろ」と迫られて、泣く泣く疎開を保留にしたという場面に出会った。19 : 1の戦力差が与える影響とはこういったものだ。

また「楽観派」は多数派ながら、「悲観派」の論理を僅かも受け入れることは出来ない事情がある。彼らの寄って立つところ、「故郷は暮らせるほどに全く無事である」という前提が覆されると、自分の生活も一から見直す必要が出てくるからだ。お上と専門家が言っていることを信じて何が悪い、という位置に居続けなければならない。

福島の問題が難解なまま推移している最大の要因は、宮城や岩手と違い「被害が目に見えない」ということに尽きると思う。確かにガイガーカウンターで計測すれば以前より高い数値であることは分かる。しかし生活感として感じることが出来ないのだ。悪臭がするとか、肌にピリピリ感じるとか、そういった感覚では一切迫ってこないのが放射性物質及びそれらが発する放射線である。このことを最大限に活用しているのが、「楽観派」を支える勢力であろう。議論に空白が生じると、それだけで「楽観派」が優勢になってくる。感知できないということが、安心したい願望とミックスされて、「何もないのではないか」という印象を強めるからだ。震災当初住民たちに「自主避難」を勧めていた南相馬市が、時間の経過とともに、県外避難者に対して突然の帰還勧告を発し、避難者に大きな動揺を与えるに至ったが、この件に関しても「被害の見えなさ」がそうした判断の背景にあったのではないかと思う。

「目に見えないもの」ということに私はあるインスピレーションを感じている。例えば「人権」や「生存権」、「憲法二五条」等々、活字でその主旨を表現出来ても、本質的には私たちが目に見えない形でいつも胸の中に持っていて、実生活の中で運用していかなければならないものが、いくつかある。多くの福島の人々が奪われつつあるのは、これらを総合した「民主主義」というものではないだろうか。いや、奪われるというより、私たち東北人は、基本的にこれを放棄して生きているようなところがあるように思う。一生懸命働いてさえいればそれだけで報われる、難しいことは偉い人に任せておこう、というあの権威主義のパターンだ。

人間が善良で愛情深いことはとても大切なことだし、関係性を形成する要ではある。本来それだけで生きていけたら幸福だ。だが、まだ社会は発展途上にあり、「人権」についての認識などは全然足りないと感じられる場面が多い。自分たちが理想として掲げている「憲法」の内容に自分たちが違反していたりする矛盾がそれを物語る。

福島の中で起こっている混乱について、肉眼で見えるものは、避難の是非を巡る問題である。しかし、目に見えないところで必死にもがきながら段々と結論に近づいている大きなテーマが、そのバックグラウンドに存在している。それは、「私たちはどこまで自分たち自身を大切にしていいのか」という民主主義の根幹を成す命題だ。目に見えない放射線被害が、この目に見えない命題の回答を迫り続けている。

敢えて誤解を恐れずに書く。今、福島の人々が的確なサポートを受けて物事を考えることができたなら、これは民主主義の歴史上重要なターニングポイントとなるだろう。「悲観派」の人々は、先ほど述べたような酷い迫害を受けることがあり、その精神的苦痛は計り知れない。それでも一つハッキリしていることがある。前世紀に民主主義を勝ち取るために活動した人々のように、銃殺によって処刑されたりする時代は、我が国ではもう終わっているのだ。だから生命の危険無しに、文科省をはじめとした国の主要機関に詰め寄ったりできる。希望に満ちているといってもいいくらいだ。

私が福島の人々を支え続けたいと思うのは、自分の住む世界が、より良い方向に向かうことに深く関わりたいからであり、それは人間のごく自然な願望であると思う。

プロフィール
佐藤洋(サトウヒロシ 通称「ひろぴぃ」)
「毎週末山形」というボランティアグループを運営していて、福島県から山形へ避難する機会を少しでも確保しようとしている人々をバックアップしています。県内においては、山形への疎開を完了した人たちが安心して暮らせる居場所づくりをテーマに、「りとる福島」というML(メーリングリスト)を運営しています。3.11以降の世界変革は、まず事態の渦中にいた人々から始まっていくと思っています。