移住雑感

沖縄に行かなければ、山形に移住することもなかった。思えば不思議な縁でここに住んでいる。元々山形には縁もゆかりもなかったのだが・・・。

生まれは、山は山でも山梨県だ。東京の大学に進学し、なぜか北海道の牧場で働き始めるもすぐに辞め、その後出版社で働くもまたも3年ほどで辞め、貯めたお金で1年ほどバックパッカーとして世界を巡ったりもした。帰国後はエメラルドの貿易会社で買い付け人としてコロンビアへ行き、そこもやはり3年ほどで辞めたところからこの身の上話は始まる。しかしこう書いてみても本当に行き当たりばったりの人生で、ここまで好きなように生きさせてくれた親に感謝である。

エメラルドの買い付け人を辞めた理由は様々だが、結婚も大きな理由の一つだ。年間10回程度日本とコロンビアを往復し、1年の半分はあちらで過ごすという生活を結婚後も続けるのは嫌だった。危ないことも多いし。

というわけで仕事をやめたのだが、妻もまた同じように結婚を機に仕事を辞め、夫婦揃って新婚早々無職となったのだった。このあたり本当に行き当たりばったりで、すばらしい伴侶を得たことに感謝である。

これから二人でどうやって生きていこうか、ということを考えるためではなく、単に前職で貯めた莫大なマイレージを使っちゃおう、という理由で、二人で中国とモンゴル、そして沖縄に旅に出たのであった。

沖縄旅行中に立ち寄った鳩間島で、ある山形出身の男性と知り合った。その人は東京在住なのだけど、山形に今は誰も住む人もいない実家があり、住んでくれる人を探しているというのだ。

これに飛びついた。元々二人ともこれ以上東京に住みたいとは思っていなかった。もっと自然に近く、殺伐としていないところで、満員電車に乗らずにすむところで暮らしたかった。その人の実家は山形市郊外の高瀬地区にあるのだが、そこはまさに我々が住みたいと思っていたような所だった。

そんな縁で移住してきたのである。最大の懸念だった仕事も、最初は誤って妙なところに勤めてしまったが、今は製造業に関わる仕事で、薄給ながら平和に暮らしている。

山形には当初から雪国というイメージしかなく、冬には2mも3mも雪が積もるのだ、といった覚悟を持ってやってきたが、過大な覚悟のお陰か思ったほど厳しいものではなかった。移住のきっかけになった家には今は訳あって住んでいないが、同じ高瀬地区の別の家を借りて住んでいる。そしてどちらでも近隣の人に良くしてもらって暮らせている。

移り住んできてから子どもも2人産まれ、確実に山形県民を増やしている。私は「モンテディオ山形」にはまり、いまや「スポーツ県民歌」も歌えるようになった。長男なのだが、このままずっと山形に住みたい、そう思って暮らしていたし、そのつもりでもあった。

全てが一変したのは、先の東日本大震災からだ。幸い山形には大きな被害はなく、現在は全く普通に暮らせている。しかしながら原発からの放射能のことを思うと、心が深く沈んでしまうことを避けられない。

以前は心から美しいと思っていた風景も、心のどこかにフィルターでもかかったように、どこか違って感じられる。心のどこかに刺さった棘のように、常に放射能のことが引っかかるのだ。

我が家で取れたり、近所からもらったりする野菜も、子どもが遊ぶ砂も、石も、花も、本当に大丈夫なのかという思いが常につきまとう。もうこの思いは消えることはないのだろう。

一時は実家を含めてどこかへ移住することも考えたが、すぐに打ち消した。これから家族をどう養っていけばいいか、それを考えると軽々と判断できなかった。これまで身軽に、先のことはどうにでもなるさと生きてきたが、守るものの多い自分に驚きながら、最も保守的で現実的な、現状維持を選んだ自分がいた。

これが最善の選択だったのかという思いは常につきまとい、答えの出ない自責の念をこれからも抱えて生きていくのだろう。子どもたちの未来を考えると今も心が大きく揺らぐ。山形に産まれ育ったものでないからこそ、これからも山形に住むという決断を下すのに決意が必要だった。

だが、私は決めたのだ。暮らし易く、四季がはっきりとして美しい、食べ物のおいしいこの山形でこれからも暮らしていこう。放射能という目に見えない恐怖と共に生きていくことになるとは夢にも思わなかったが、これからも山形人として生きていこう。大好きになった東北、山形の人たちと寄り添って生きていこう、と。勝手ながらこれからもよろしくお願いします。

プロフィール
岡本 健(おかもとけん)
1972年生まれ。39歳。山梨県出身。ひょんなきっかけで縁もゆかりもない山形に住み着いて早7年。嫁さんと子供二人と犬(雑種)1匹で楽しく暮らしております。