「本屋と本と私」 古田茄子

おおきな木

おおきな木

無農薬の旬の甘夏を手に入れたので、マーマレードを作ることにした。皮を刻んで種や果肉とともにくつくつ煮込む。えもいわれぬ甘酸っぱい香りが立ち込める。こんな時間が過ごせるのがほんとうはとても贅沢で恵まれたものだということを、今回の地震でつくづく感じた。丸一日半、電気と水道がない状態で過ごし、暗くなれば寝るしかなかった。こんなとき、本なんて誰が必要とするだろう、と思う。勤めている書店では、お客さんに提供できるものなんてほとんどなかった。せいぜいトイレくらいだ。
 
書店に勤めて通算10年になる。就職氷河期でなんとか採用されたところは、そのころ急激に店舗を増やしていたベンチャーの書店グループだった。右も左もわからないままいきなり売り場をまかされ、年上のパートのおばさんをリードするという役目を背負った私は、あちこちの書店の売り場をうろうろして、本の陳列の仕方や棚の作り方をメモして回った。詳しい人がいると聞けば教えてもらいに出かけていったりもした。最初はとにかく仕事を覚えることで必死だった。必死のまま一年がすぎ、新入社員で入ってきた彼に出会った。彼は本の魅力とおもしろさを見出すのに天才的な感性を持っていて、特に絵本のおもしろさを教えてくれた。私は新しい扉を開いた思いで絵本の世界に魅了されていった。私たちは売り場の改善策を話し合い、明け方まで棚作りに没頭するようになった。そのころすでに、書店の仕事にすっかりとりつかれていた。出会って半年もたたないうちに別々の店に配属され、離れてしまったが、彼は何か決定的なものを私に植えつけていったのだった。

それ以来、東京に出かけては有名書店や、児童書の専門店を見て回った。様々な本と出合い、陳列やポップのデザインなどをなめるようにチェックした。そのころ読んだ書店についての本がある。その本には、「書店が売るものは情報であり、霊感であり、人とのかかわりあいである。書店は、書棚に魔法や嵐を起こすこともできる。書店員が特別な人間でなくてなんであろう」というようなことが書いてあったと思う。そうか、本屋の棚には高邁な哲学者の書もあれば、金魚の飼い方の本もあって、それがひとつの空間に詰まっている。時空を超えた人類の叡智の集積、ほとんど宇宙的な広がりと深みを持つ本の世界。ああ、そんなところに日々自分はいるのだ!と、すっかり心酔してしまった私は、ますます仕事に邁進していった。ふつふつと沸くアイディアと、それを実現する日々。体の中からどんどん情熱がわきあがってくる。これが天職というものなのかもしれないと、思い始めていた。
 
さて、時はたち、紆余曲折あって、今また書店で働いている。ただ突っ走っていた頃と違って、今は書店という空間が地域や人々にとってどうあればいいのかと考えることが多くなった。子どものための読み聞かせやイベントの企画をする一方で、毎日出会うお客さんにいろいろなことを教わる。株の本をまとめ買いするビジネスマンもいれば、憔悴しきった顔でうつ病の本を買いに来る若い女性もいる。車椅子の方、元気な子どもたち。これらの人々と何かを共有するのか、リードするのか。いやそれとも、気楽に楽しさだけを追求すればいいのか・・・。

そんな日々のなか、村上春樹の新訳で『おおきな木』という絵本が出版された。あとがきで、村上春樹はこう書いていた。「・・・人の心を本当に強く打つのは多くの場合、言葉ではうまく説明できないものごとなのです。だからこそ、この本は世界中で多くの人々の手に取られ、何度も何度も読み返されてきたのでしょう。・・・あなたがこの物語に何を感じるかは、もちろんあなたの自由です。それをあえて言葉にする必要もありません。そのために物語というものがあるのです。物語は人の心を映す自然の鏡のようなものなのです・・・」

物語でしか語りえないもの、それこそが人の心を動かす・・・。私はこの言葉に深く納得し、感動したのだった。語りえないものがあるからこそ世界は成り立つのだ。そういう確信があった。本を読むと、言葉が、文のリズムが身体を駆け巡る感じがする。駆け巡る言葉が身体の細胞を浸し、そのたびに世界が違って見えてくる。肉体に宿った言葉は、どんな作用を自分に及ぼすのだろう。

今回の地震を乗り切る知恵。生き抜く術。それを本に求めようなんて安易なことはいえない。ただ、本屋が、求める人にとって何かのヒントを、出会いを提供する空間でありたい。自分もまたそれに助けられ、今まで生きてきたのだから。

プロフィール
古田 茄子(ふるた なす)
山形暦10年あまり。最上川の歴史研究、城山登り、湧き水深訪、そば屋めぐりなど、趣味は山形。植物の名前を覚えるのが得意。オーガニック料理や身体にやさしいお菓子作りにも精を出す。いつか青汁だけで生きていけるよう肉体改造して、仙人になりたいとの野望を秘めている。