記憶の欠片

The Days After 東日本大震

The Days After 東日本大震

この小さな声を、もっと多くの誰かに、届けられたなら。今にも消えてしまいそうな、はらはらとこぼれおちそうな記憶の欠片を、文字という力を借りて、今ここに足跡を残すことができるのなら。

だからこそ。私は、今。

私が初めて被災地に足を踏み入れたのは、震災二週間後の石巻市。海岸沿いに近付けば近付くほど、そこは地獄といっても過言ではない、信じがたい光景の連続だった。車があり得ない姿で積み重なり、人がそこに住んでいたであろう居場所がすっぽりと消えて、灰色の険しい空が異様なまでに私に迫ってきていた。目の前に広がる町のどこをみても、今まで私が知っていた「町の常識」はどこにもなかった。

言葉が出なかった。私が持ちあわせている全ての言葉の、どの単語を見渡しても、この目の前の光景を表現する術が私にはなかった。現実が言葉を超えていた。その言葉が持つ意味や限界を超えていた。

被災した住人たちにかけられる「大変でしたね」「頑張って下さい!」「大丈夫ですか?」。これらの言葉がどんなに現実に即していないか、私は現場に来て改めて感じた。言葉は無力だ――思わずそう感じてしまった。

私は避難所で一人の女性と出会った。高校を卒業したてだという。避難所の中、疲れ切った人々の中で、笑顔を見せ、きれいな肌と黒いまっすぐな髪がとても印象的な、どこにでもいそうなかわいらしい女性だった。

炊き出しをきっかけに何度か目があい、彼女と話しをすることが出来た。

その彼女が私に最初に伝えた想い。それは、次の言葉だった。「私には、もう帰る場所がない。こんなに辛い目にあうなら、あの時私も津波と一緒に流されれば、どんなに楽だったか。あの時、私は死ねばよかった・・・」。

まさかそのような言葉が出てくるとは思わなかった。きれいな顔から、そのまっすぐな黒い目から、すっと涙がこぼれ落ち、一瞬にして笑顔が消えた。その女の子の体は、小さく震え、だんだん小さくなっていくようだった。

・・・地震がきた時、私は母と一緒にこたつでテレビを見ていたの。そしたら、なんか急に変な音が聞こえてきて、「何?」って思った瞬間、すごい揺れが襲ってきた。私は怖くなって、外に出たら、見慣れた路地のブロック塀が、がらがらと崩れていくの。「あぁ、どうしよう」と思っているうちに、水がこっちに押し寄せてくるのが見えて、急いで母と一緒に近くの避難所にこのままの姿で走って逃げた。何も持っていく余裕なんてなかった。避難所についたら、そこにはたくさんの人がいて。電気もつかず、食料もなく、暖房もなく、とにかく何が起きているのかよくわからないけど、三日間避難所にいた。その間に口にしたのは、コップ半分の水だけ。三日間でだよ。食べ物はなかった。家に帰りたくても、水が引いていなかったから外に出られなかった。

三日後にやっと水が引いて、自宅に戻ってみたの。何か必要なものを持ってこようと思って。でも、家に行く道がないの。だって、町がなかったんだもん。自宅を探している間も、歩く先々に、たくさんの遺体が生々しくごろごろと転がっていた。変な臭いもしていた。私はその遺体の中を、泣きながら歩いて自宅に向かった。靴も服ももう汚れていた。なんとか自分の家にやっとの想いで辿りつくことが出来た。と思ったら、そこには、自分の家が、すっぽりなかったの。そう、私には、帰る場所がなくなってしまったの。何もかもなくなったの。目の前から、消えたの。きれいに…(沈黙)。

私は地震があってから、ずっと眠れてなくて。目を閉じようとすればするほど、私が外で見たブロック塀が崩れ落ち、水が押し寄せてくるあの光景が瞼の裏に浮かんでくるの。だから、怖くて眠れない。目を閉じるのが怖い。だって、あの景色が見えてしまうから。つい先日、精神科医の先生が避難所に往診にきてね、私、先生に相談して、睡眠薬をもらうことにしたの。それを飲んだら、やっと眠れるようになった。私、精神科から薬をもらっているんだよ。

でも、不眠症でひどかった時は、「あの時津波に流されて楽に死んでしまえばよかった」っていう想いしかなくてね、生きている意味がわからなかった。なんで生き残ってしまったんだろうって、毎日苦しくて泣いていた。でも、一緒の避難所にいる周りの家族や生き残った友人たちから励まされ、やっと前向きに生きていこうって気になれたんだ。私を心配してくれる人が周りにいるんだもの。頑張ろうって。皆、私と同じでつらいんだもんね。私だけつらいんじゃない。

大変だけど、私、頑張ることにしたんだ。四月からね、入社が決まっている会社が仙台にあるんだけど、被害が無かったみたいだから、落ち着いたら私はそこで働くんだ。働けるだけ、私はましだよね。とにかく、働いてお金を稼ぐことが今の私に出来る最大のことなの。だって、私にはもう帰る場所なんてないんだもの。

そう言って、彼女は泣いた。私も泣いた。なんて声をかけていいのか、わからず私はただ「聞くことしかできなくて、ごめんね」と、なぜか謝り続けていた。謝るのは変だと思っても、「ごめんね」しか出てこない。「頑張れ」なんて、私の口からは言えない。そもそも、言う権利などなかった。

「頑張れ日本・頑張れ東北」

「皆、頑張れ頑張れって応援してくれるんだけど、どこをこれ以上頑張れっていうんだ。これでも頑張って生きているんだって、みんなもう頑張り尽したのだよ」。避難所で会った誰もが皆、疲れ切った顔でそう言った。

「負けるな日本・頑張ろう東北」

「もう、全て失ったんだ。何もかも。今まで築きあげてきたものも。悲しむだけ悲しんだ。泣くだけ泣いた。どん底を何度も見た。人生から光が消えた。でも、もう、悲しむ時期は終わったんだ。二度目の与えられた人生、たくさん命が奪われた中で、生かされた命、また生きればいいってことよ。そして、どうせ生きるのなら、楽しく笑いながら生きていくべ。これは、震災が教えてくれたことだ。皆にも感謝しているよ。人って、温かいなぁって。この年になって、気付けたよ。儲けもんの人生だ。楽しくいこうよ。」
土砂の撤去を手伝いにいった先で、八〇代のじいちゃんが、帰り際そういって、私の肩をポンと押した。

私は相変わらずうまく言葉を見つけられない。もどかしい想いを抱きながら、でも、行き先のない「ごめんなさい」とは違う、「ありがとう」という言葉に私ができる最大の願いと祈りを込めて、笑顔で両手を大きく振って別れた。互いの姿が見えなくなるまで、そのじいちゃんは、私たちに手を振って見送ってくれた。

サイタサイタ、サクラガサイタ。
満開の桜が、避難所で咲いた。瓦礫の中に、小さな野花が顔を出した。

そう、今年もちゃんと被災地にも春が来た。神様は全てを奪ってはいない。新たな未来に向け、歩み始めた隣県の方の生きる力を是非とも感じてほしい。そして、「頑張れ」って、一方的に言うのではなく、一緒に歩みだしていってほしい。
        
「ともに歩もう日本、いっしょに頑張ろう東北。」

大切な方を震災で亡くされた方に、そして私の友に、この想いを届けたいと思います。心より、ご冥福をお祈り申しあげます。

プロフィール
タミヤマキコ
自然と人間と音楽を愛する河北町産。高校卒業後、山形を飛び出す。大学卒業後、日本を飛び出す。その途中、忘れかけていた大切なものに気付き、山形に戻る。今はじいちゃんばぁちゃんに囲まれ民家型ディサービスをしており、これまた日々是好日。人生の目標は「地球にやさしい人間になること」。好きな食べ物は、干し芋と大豆と米。時々おもしゃい事をやりたくてうずうず病にかかる。趣味は、ふらり旅・巨木と森巡り。弱点は、「りゃりゅりょ」が未だに発音出来ないこと。