若者たちにとって「地域」とは何か

■2年前、山形県からの委託を受け、県内各地でユニークな取り組みを行っている若者たちの地域活動グループを10団体ほど調査・取材し、その内容を一般向けにまとめた冊子を発行した(ぷらっとほーむ編『地域のつくりかた! やまがたの若者たちの地域づくりインタビュー情報誌』A5判、144頁、税別1000円)。高校生たちのボランティア・サークルや大学生たちのゼミ/サークル活動、非学生の若者たちが中心となった地域イベント創出やアート活動、ミニコミ発行、学びの場づくりなど、さまざまな取り組みをとりあげた。

■多様な取り組みを調査・取材したことで見えてきたことがある。「地域活動」あるいは「地域づくり」と言ったときに、そこには二つの方向性が存在するということである。それはどういったものか。第一に、そこで言う「地域」が「限界集落」のような第一次産業に立脚する中山間地域を暗に示しているような場合の「地域活動/地域づくり」、そして第二に、そこで言う「地域」が(都市/郊外/農村を問わず)人びとが日常的な生活の拠点を置いている空間を暗に指しているような場合の「地域活動/地域づくり」である。順に見ていこう。

■まずは前者から。住民の多くがそこを去り、高齢者の比率が全人口の50%を超える中山間の集落を「限界集落」と呼ぶが、そうした集落やその予備軍を指して言うような「地域」の場合、「若者たちの地域活動/地域づくり」とは、人口が圧倒的に不足し、動きが枯渇してしまった集落に、よその若者たちが入っていくことで、不足している人手や刺激をその「地域」にもたらすということを意味している。若者たち=外からの風が入ることで、停滞していた空気や人びとの気持ちが再び動き出す。これが、「若者たちの地域づくり」の一つのイメージである。

■では、もう一つのイメージはどのようなものか。前者の「地域」が、主に「都市」との対比で定義づけされているものだとするなら、こちらの「地域」は、人びとが所属する集団の一つとして位置づけられるものだと言えるかもしれない。つまり、企業や役所、学校ではないものとしての「地域」である。「企業づとめを終えて定年退職を迎えた団塊世代の男たちは地域に居場所がなくひきこもりがちになる」などという場合の「地域」だ。職場や学校は明確な目的に基づいた共同体だが、「地域」は明確な目的をもたない共同体である。

■明確な目的をもたないとは、目的がないということではない。そこには、さまざまな人びとがともに生きる/生活していくという目的がある。ただし、生きる/生活していくということは、あまりに「日常」的なものであるため、そのどこかに線を引いて、その集団の共通の目的を明確にし、それだけを効率よく集中して遂行するという「非日常」的なやりかた――これを行っているのが企業や学校である――になじまない。この「日常性/非日常性」は、「共同性/目的性」とも言い替え可能だ。つまり、「地域」とは「日常」的で「共同」的なものである。

■この意味で「地域活動/地域づくり」と言った場合、若者たちがそれに関与する意義はどこにあるだろうか。そもそも、「地域」の空間は、高度経済成長や郊外化によって、働いている現役世代をそこから限りなく遠ざけ続けてきた。人びとは、自動車や電車で自宅から遠くはなれた職場や学校に通い、日中は「地域」に残らない。残るのは、専業主婦の人びとや高齢者、子どもたちのみであり、若者たちもまた「日中には地域にいるはずのない人びと」としてカテゴリー化されてきた。「不登校/ひきこもり/ニート」を異常視するのもこの文脈である。

■このように、「地域」とは本来若者たちを遠ざけ続けてきた空間なのだが、彼(女)らを包摂し、居場所を提供してきた学校や職場など目的性の空間が、90年代半ば以降、従来の役割や機能を破棄したことにより、それらに代わる空間として新たに必要とされ、注目されるようになったものである。とはいうものの、これまで「地域」という空間は、先に述べたとおり、専業主婦や子ども、高齢者といった人びとのニーズに合わせて最適化されて存在してきたものであるため、若者たちにはいささか居心地がよくない。ではどうするか。

■先に、「地域」の機能を、さまざまな人びとがともに生きる/生活していくことを可能にする場の提供、と位置づけした。「さまざまな人びとがともに」という部分が最重要ポイントだ。働いている現役世代は「会社」に、その準備中の若い世代は「学校」に、そしてそれ以外は「地域」に、といったカテゴリー化を行い、それぞれに果たすべき役割を配分することで、効率よく社会システムを回していこうという従来の方法は、もはや機能不全に陥っている。いまや「地域」は、「都会/会社/学校」が包摂しきれない多様な人びとが混住する多様性の空間である。

■実はこの点にこそ、若者たちが「地域活動/地域づくり」に関与する最大のメリットが存在する。現在、30代以下の若者たちは、高度経済成長の時代にすくすく生育した団塊世代の子どもたち=団塊ジュニア(およそ1970年代生まれ)以後の世代である。彼(女)らは、生まれたときにはすでに高度経済成長は完了しており、あらゆる物的ニーズ――モノの欠乏――がすでに克服された社会で生まれ育った。このため、団塊ジュニア以降の世代には、それ以前の世代にしみついた「経済成長=しあわせ」神話がインストールされていない。

■さらにいうと、大衆消費財が一巡し、人びとの基本的なニーズが充足されたポスト高度経済成長の時代においては、いままでのようにはモノが売れなくなり、企業は新規需要を喚起するためのさまざまな販促手法を開発していくようになる。デザインに凝ったり、季節ごとに商品をモデルチェンジしたりするのもこのころから顕著になる。かくして成立したのが大衆消費社会である。大衆消費社会とは、人びとを「終わりなき差異化」へと動機づける社会である。よって団塊ジュニア以降の世代は、年長世代に比べ、細やかな差異に敏感である。

■経済成長や金銭的価値にこだわらないこと、そして自己/他者の差異に敏感であることの利点とは何か。先回りして言うなら、それは、「地域」で暮らすなかで生じる多様なニーズに気づきやすいということである。どういうことか。仮に、あなたの隣人に次のような若者がいたとしよう。例えば、その人は県外からの転勤でヤマガタ暮らしを始めたものの、職場とアパートの往復だけの日々を送っている。職場には同世代がおらず、休日に会うような相手もいない。趣味は「映画を観ること」で、休日は映画館にでかけることもある。さて、この若者のニーズとは何だろうか。

■経済的なニーズばかりを追い求めるまなざしからすれば、「公共的な対処が必要な問題など何もない。もしその人が寂しさに悩んでいるのだとしても、それはその人の自己責任である」といった見えかたになるだろう。この人には正規雇用の仕事があり、すでにニーズは充たされている、というものだ。だが、経済的には何の問題もないように見えるその人には、微細だが深刻な「社会的孤立」というニーズが存在する。効率化のためにさまざまなつながりが断ち切られ、あらゆるものが流動化し、足場が不安定な社会にあっては、「寂しさ」もまた立派な社会問題である。

■経済的ニーズに集中してしまいがちな年長世代とは違って、団塊ジュニア以降の世代は、そこにそれほどの注意力を振り向けない。しかも彼(女)らは、彼我の差異――数値換算できない文化的な差異――に比較的敏感である。そこから結果的に、彼(女)らは、貨幣に換算できないような、人びとの多様なニーズを見つけ出すのが得意と言える。若者たちの「地域活動/地域づくり」は、この側面で力を発揮する。それは、「地域」のなかで他者とのつながりをもてずに孤立しているさまざまな人びととそのニーズを見つけ出すことができるのである。

■孤立した人びとを見つけ出し、そのニーズを発掘するだけが、若者たちの「地域活動/地域づくり」の役割ではない。「地域活動/地域づくり」に取り組む若者たちのサークルそのものが、社会的孤立のなかで生きづらさに苦しむ若者たちに居場所を提供してきた。例えば、先の例を再び引こう。孤立するその人の趣味は映画である。もし、その人の暮らす「地域」に文化的な多様性が存在し、映画をテーマとする若者たちの集まりやサークルがあちこちで活動していたなら、その人はそれらに参加することで、排除や孤立を免れることができただろう。

■まとめよう。冒頭で述べた第二の意味における「地域」、人びとの日常的な生活空間としての「地域」において、若者たちが活動することの意義は、混在性を増して不透明になった「地域」のなかに眠る多種多様なニーズを発見したり発掘したりできるという点にある。さらには、そうした活動の空間それ自体が、若者たちの多くに共通して存在する社会的排除/孤立――「貧しさ」と「寂しさ」――という問題に対するひとつの対処をも提供している。それが居場所である。当然ながら、居場所は対価を必要としない包摂の空間である。

■若者たちの「地域活動/地域づくり」といったときに、こうしたイメージは一般的に想起されるもの――「都会出身の若者が限界集落にやってきて新規就農」的な第一のイメージ――とはずいぶんかけ離れている。だが、グローバル化が進み、人口の流動性が増した現代の日本/東北/ヤマガタにあって、混在化した「地域」をどうやって包摂の空間に変えていくかというテーマもまた、不可避である。「地域」のなかでさまざまな切り口で活動を展開し、ユニークな居場所をあちこちで開いている若者たちの取り組みは、そうした問題系に直結している。

プロフィール
滝口克典
1973年生まれ。東根市在住。若者支援NPOを主宰する傍ら、大学院で社会学を学んだり、予備校で教えたりしている。好きなものは、安藤裕子の楽曲とチェブラーシカ太陽の塔