山形県出身作家の作品を読む その1 阿部和重 『ピストルズ』

ピストルズ

ピストルズ

もうすぐゴールデンウィークを迎えようとしている、4月も終わりに近づいた頃、久し振りに若木[おさなぎ]神社(東根市神町)へ行ってみた。今年は例年になく寒い冬で、いつもなら新緑が目に眩しい季節なのに、体に感じるのは冷たい風と淀んだ空気の重さだった。下校途中の小学生の列を横目に、神社までの道のりをゆっくり歩く。何度となく歩いた道だが、一人で来たのは初めてかもしれない。今年は震災の影響で、5月3日の神町祭りは中止だという。それもあってか、どうも春が来たという気がしない。

境内に人影はなく、木々のざわめきと葉の舞い散る音、風で揺れるブランコの金属音が聞こえるばかりだった。肌寒くなってきたし、山頂へは登らずに戻ろうかと神社に背を向け歩きだす。帰り道、自分は今日どうして若木神社へ来ようと思ったのか考えていた。

自宅に戻り、冷えた体を温めようと部屋に入る。机には1冊の本が置かれていた。『ピストルズ』。そう、これを読み返したからだ。だいぶ日も暮れ、そろそろ部屋の明かりを付けようかとスイッチに手を伸ばそうとしたその時、私の目に飛び込んできたのは、夕日に照らさた金のタイトル文字。薄暗闇に浮かぶそれは、とても美しく、まるで聖書のように神聖なものに感じられた。そう、神の書。この物語は「神の町」=神町[じんまち]を舞台に書かれた壮大な「事件簿」である。再びスイッチに手をやり、明かりを付け、何度目になるだろう、本のページを捲った。

・・・若木[おさなぎ]山に住む菖蒲一家は魔術師の一族だという。そんな噂を住民に囁かれるような謎に包まれた一族が住んでいるのが、山形県東根市神町である。その一家の、四姉妹の次女が菖蒲あおばであり、作家である彼女のもとを、本のキャンペーンセールのお願いとサイン本をもらう依頼のために、書店主の石川が訪れる。彼女の口から放たれる、菖蒲家の「秘密」と神町で起きた「事件」の真相。それらを知ることで、彼はやがて己自身の運命までをも変えられてしまう。千年以上も秘術を継承してきた菖蒲家の、普通の家族からは想像もつかない壮絶な歴史と宿命。その一家が2005年の夏に引き起こした「血の日曜日」と呼ばれる事件の真相と結末。今まで知られることのなかった、いや、知ってはいけないこの事実は、石川を廃人同然にしてしまう――。ラストで彼は読者に語る。秘術の継承者であり事件の首謀者である、末娘の菖蒲みずきが自室に居ると感じるのだと。魅惑の香りを放ち、耳元で自分に話しかけてくる。その美声は彼に何を語ろうとしているのか。

物語はここで一旦終結するが、著者は最後に「さしあたっては各機関の出方を注視し、たがいに牽制しあいつつ、菖蒲みずきの動向を注意ぶかく見まもってゆかねばなるまいが、それはまた、別書での報告とする。」と、次回作の予告を思わせる文章で作品を締めくくっている。本書は、前作『シンセミア』に続く、「神町三部作」と称されるものの二作目である。三作目の出版を期待しながら本を閉じようとしたその時、表紙のカバーが外れて床に落ちた。露わになった表紙には、「兵士の銃口に花を差し込んでいる人びと」を写した写真がのせてあった。白黒のこの写真は一体何を意味しているのか。窓を開け、闇に向かって私は問う。月はおろか、星もない暗闇は、次回作で描かれるこの町の未来を予言しているかのように思えた。窓辺に、夜風の運ぶ何かしらの花びらが舞い落ちてきた。それは桜の花びらであった。本来は美しいものであるはずなのに、今の私には、それが何だか不気味なものに思えて仕方ないのだ。

プロフィール
阿部惠
1973年生まれ。神町在住。書店員。読書とコーヒーをこよなく愛する。

若者たちにとって「地域」とは何か

■2年前、山形県からの委託を受け、県内各地でユニークな取り組みを行っている若者たちの地域活動グループを10団体ほど調査・取材し、その内容を一般向けにまとめた冊子を発行した(ぷらっとほーむ編『地域のつくりかた! やまがたの若者たちの地域づくりインタビュー情報誌』A5判、144頁、税別1000円)。高校生たちのボランティア・サークルや大学生たちのゼミ/サークル活動、非学生の若者たちが中心となった地域イベント創出やアート活動、ミニコミ発行、学びの場づくりなど、さまざまな取り組みをとりあげた。

■多様な取り組みを調査・取材したことで見えてきたことがある。「地域活動」あるいは「地域づくり」と言ったときに、そこには二つの方向性が存在するということである。それはどういったものか。第一に、そこで言う「地域」が「限界集落」のような第一次産業に立脚する中山間地域を暗に示しているような場合の「地域活動/地域づくり」、そして第二に、そこで言う「地域」が(都市/郊外/農村を問わず)人びとが日常的な生活の拠点を置いている空間を暗に指しているような場合の「地域活動/地域づくり」である。順に見ていこう。

■まずは前者から。住民の多くがそこを去り、高齢者の比率が全人口の50%を超える中山間の集落を「限界集落」と呼ぶが、そうした集落やその予備軍を指して言うような「地域」の場合、「若者たちの地域活動/地域づくり」とは、人口が圧倒的に不足し、動きが枯渇してしまった集落に、よその若者たちが入っていくことで、不足している人手や刺激をその「地域」にもたらすということを意味している。若者たち=外からの風が入ることで、停滞していた空気や人びとの気持ちが再び動き出す。これが、「若者たちの地域づくり」の一つのイメージである。

■では、もう一つのイメージはどのようなものか。前者の「地域」が、主に「都市」との対比で定義づけされているものだとするなら、こちらの「地域」は、人びとが所属する集団の一つとして位置づけられるものだと言えるかもしれない。つまり、企業や役所、学校ではないものとしての「地域」である。「企業づとめを終えて定年退職を迎えた団塊世代の男たちは地域に居場所がなくひきこもりがちになる」などという場合の「地域」だ。職場や学校は明確な目的に基づいた共同体だが、「地域」は明確な目的をもたない共同体である。

■明確な目的をもたないとは、目的がないということではない。そこには、さまざまな人びとがともに生きる/生活していくという目的がある。ただし、生きる/生活していくということは、あまりに「日常」的なものであるため、そのどこかに線を引いて、その集団の共通の目的を明確にし、それだけを効率よく集中して遂行するという「非日常」的なやりかた――これを行っているのが企業や学校である――になじまない。この「日常性/非日常性」は、「共同性/目的性」とも言い替え可能だ。つまり、「地域」とは「日常」的で「共同」的なものである。

■この意味で「地域活動/地域づくり」と言った場合、若者たちがそれに関与する意義はどこにあるだろうか。そもそも、「地域」の空間は、高度経済成長や郊外化によって、働いている現役世代をそこから限りなく遠ざけ続けてきた。人びとは、自動車や電車で自宅から遠くはなれた職場や学校に通い、日中は「地域」に残らない。残るのは、専業主婦の人びとや高齢者、子どもたちのみであり、若者たちもまた「日中には地域にいるはずのない人びと」としてカテゴリー化されてきた。「不登校/ひきこもり/ニート」を異常視するのもこの文脈である。

■このように、「地域」とは本来若者たちを遠ざけ続けてきた空間なのだが、彼(女)らを包摂し、居場所を提供してきた学校や職場など目的性の空間が、90年代半ば以降、従来の役割や機能を破棄したことにより、それらに代わる空間として新たに必要とされ、注目されるようになったものである。とはいうものの、これまで「地域」という空間は、先に述べたとおり、専業主婦や子ども、高齢者といった人びとのニーズに合わせて最適化されて存在してきたものであるため、若者たちにはいささか居心地がよくない。ではどうするか。

■先に、「地域」の機能を、さまざまな人びとがともに生きる/生活していくことを可能にする場の提供、と位置づけした。「さまざまな人びとがともに」という部分が最重要ポイントだ。働いている現役世代は「会社」に、その準備中の若い世代は「学校」に、そしてそれ以外は「地域」に、といったカテゴリー化を行い、それぞれに果たすべき役割を配分することで、効率よく社会システムを回していこうという従来の方法は、もはや機能不全に陥っている。いまや「地域」は、「都会/会社/学校」が包摂しきれない多様な人びとが混住する多様性の空間である。

■実はこの点にこそ、若者たちが「地域活動/地域づくり」に関与する最大のメリットが存在する。現在、30代以下の若者たちは、高度経済成長の時代にすくすく生育した団塊世代の子どもたち=団塊ジュニア(およそ1970年代生まれ)以後の世代である。彼(女)らは、生まれたときにはすでに高度経済成長は完了しており、あらゆる物的ニーズ――モノの欠乏――がすでに克服された社会で生まれ育った。このため、団塊ジュニア以降の世代には、それ以前の世代にしみついた「経済成長=しあわせ」神話がインストールされていない。

■さらにいうと、大衆消費財が一巡し、人びとの基本的なニーズが充足されたポスト高度経済成長の時代においては、いままでのようにはモノが売れなくなり、企業は新規需要を喚起するためのさまざまな販促手法を開発していくようになる。デザインに凝ったり、季節ごとに商品をモデルチェンジしたりするのもこのころから顕著になる。かくして成立したのが大衆消費社会である。大衆消費社会とは、人びとを「終わりなき差異化」へと動機づける社会である。よって団塊ジュニア以降の世代は、年長世代に比べ、細やかな差異に敏感である。

■経済成長や金銭的価値にこだわらないこと、そして自己/他者の差異に敏感であることの利点とは何か。先回りして言うなら、それは、「地域」で暮らすなかで生じる多様なニーズに気づきやすいということである。どういうことか。仮に、あなたの隣人に次のような若者がいたとしよう。例えば、その人は県外からの転勤でヤマガタ暮らしを始めたものの、職場とアパートの往復だけの日々を送っている。職場には同世代がおらず、休日に会うような相手もいない。趣味は「映画を観ること」で、休日は映画館にでかけることもある。さて、この若者のニーズとは何だろうか。

■経済的なニーズばかりを追い求めるまなざしからすれば、「公共的な対処が必要な問題など何もない。もしその人が寂しさに悩んでいるのだとしても、それはその人の自己責任である」といった見えかたになるだろう。この人には正規雇用の仕事があり、すでにニーズは充たされている、というものだ。だが、経済的には何の問題もないように見えるその人には、微細だが深刻な「社会的孤立」というニーズが存在する。効率化のためにさまざまなつながりが断ち切られ、あらゆるものが流動化し、足場が不安定な社会にあっては、「寂しさ」もまた立派な社会問題である。

■経済的ニーズに集中してしまいがちな年長世代とは違って、団塊ジュニア以降の世代は、そこにそれほどの注意力を振り向けない。しかも彼(女)らは、彼我の差異――数値換算できない文化的な差異――に比較的敏感である。そこから結果的に、彼(女)らは、貨幣に換算できないような、人びとの多様なニーズを見つけ出すのが得意と言える。若者たちの「地域活動/地域づくり」は、この側面で力を発揮する。それは、「地域」のなかで他者とのつながりをもてずに孤立しているさまざまな人びととそのニーズを見つけ出すことができるのである。

■孤立した人びとを見つけ出し、そのニーズを発掘するだけが、若者たちの「地域活動/地域づくり」の役割ではない。「地域活動/地域づくり」に取り組む若者たちのサークルそのものが、社会的孤立のなかで生きづらさに苦しむ若者たちに居場所を提供してきた。例えば、先の例を再び引こう。孤立するその人の趣味は映画である。もし、その人の暮らす「地域」に文化的な多様性が存在し、映画をテーマとする若者たちの集まりやサークルがあちこちで活動していたなら、その人はそれらに参加することで、排除や孤立を免れることができただろう。

■まとめよう。冒頭で述べた第二の意味における「地域」、人びとの日常的な生活空間としての「地域」において、若者たちが活動することの意義は、混在性を増して不透明になった「地域」のなかに眠る多種多様なニーズを発見したり発掘したりできるという点にある。さらには、そうした活動の空間それ自体が、若者たちの多くに共通して存在する社会的排除/孤立――「貧しさ」と「寂しさ」――という問題に対するひとつの対処をも提供している。それが居場所である。当然ながら、居場所は対価を必要としない包摂の空間である。

■若者たちの「地域活動/地域づくり」といったときに、こうしたイメージは一般的に想起されるもの――「都会出身の若者が限界集落にやってきて新規就農」的な第一のイメージ――とはずいぶんかけ離れている。だが、グローバル化が進み、人口の流動性が増した現代の日本/東北/ヤマガタにあって、混在化した「地域」をどうやって包摂の空間に変えていくかというテーマもまた、不可避である。「地域」のなかでさまざまな切り口で活動を展開し、ユニークな居場所をあちこちで開いている若者たちの取り組みは、そうした問題系に直結している。

プロフィール
滝口克典
1973年生まれ。東根市在住。若者支援NPOを主宰する傍ら、大学院で社会学を学んだり、予備校で教えたりしている。好きなものは、安藤裕子の楽曲とチェブラーシカ太陽の塔

音楽と駄目人間 〜石とか転がっちゃえば良いんじゃね〜1枚目:「Bringing it all back home」

BRINGING IT ALL BACK HOME

BRINGING IT ALL BACK HOME

2ヶ月ほど前のこと。引越しに伴い、友達に使わなくなったベースをもらった。ネックも若干曲がった安物だけれど、いつでも好きなときにベースに触れられるというのは、ベース好きにとってはそれだけでテンションがあがってしまう。

しかしながら、あたしはベースが弾けない。というよりむしろ、楽器はなにも弾けない。ピアノは小学生のときに「あおむし云々(あやふや)」という初期の曲で挫折し、ギターはパワーコードすら危ういほどうろ覚えである。ベースに至っては、スコアも「これから始める! ベース入門!」といった教本も無い。

しかし手元には憧れのベース。とりあえずストラップを通し、見よう見まねで担いでみる。目の前には洗面所の鏡、に映るベースを担いだあたし。う〜ん、マンダム。

自己陶酔の極みに陥り、真夜中のアパートで、Hi-STANDARDやら、GO!GO!7188やらを爆音再生。もうとにかくしっちゃかめっちゃかに、ピックを持った右手を振りおろす。べろ〜ん、べっべろ〜ん。もちろん音なんて合っているはずもなくノイズそのものなわけだが、脳内では自分が難波さんやらアッコに変換されているから不思議なものだ。

なんだか文章を綴りながら冷静になってみると物凄く恥ずかしくなりました。近隣住民の方々、本当にすんません。

「Bringing it all back home」はボブ・ディランがロック転向を表明した契機のアルバムである。当時はベトナム戦争の煽りもあり、プロテスト・フォーク・ソングといわれる強い意志を表現した歌詞が支持されていた。

それまで、代表曲「風に吹かれて」が爆発的に売れたことで「フォークの貴公子」として崇められ、アメリカの若者から絶大な支持を受けていたディラン。しかし実際のところは、自らの歌を自分勝手に解釈され、時代の代弁者として祭り上げられることに憤慨していた。そんな彼が自らを表現する新たなツールとして選んだのがロックである。

しかしそのころロックというと、明確な思想もない単なる流行歌、商業主義の塊という評価を受けていた。

事実、ディランが初めて公の場でバック・バンドを従え行ったライブでは、賞賛と怒号が入り乱れ、ディランは泣きながらギターをかき鳴らしたという。

だがそれでも、彼の魂の叫びは多くの若者の魂を揺さぶった。それはその後、デビッド・ボウイロン・ウッドのように「ディランズ・チルドレン」と呼ばれるアーティストが世界中に誕生したことに眼を向けてみれば明らかだ。

     *   *   *

彼の歌は未来の限りない可能性を歌う。音楽評論家・小野島大は、ディランについて以下のように評価する。「彼の歌は、聴き手の能動性を刺激する。それは、『俺にも出来そう』ではなく『俺もやらなきゃ』という強い思いだ」と。

というわけであたしもベースに打ち込むわけである。しかも初心者のくせに亀田誠二よろしくの指弾き。さっそく人差し指と中指に不格好な血豆をこさえたわけだけれども、それがまた愛しくて。なんでもないような小さなことにだって人間は希望を託せるんだ。ねえミスター・タンブリン・マン。

プロフィール
ぼじぃ
山形の山奥で18年。海の近くで4年。今は大都会山形市の1年目。中国の桃娘のように一生の栄養源をチュッパチャップスと苺のみに生きたい願望とは裏腹に、好物は刺身とモヤシ。夜の公園で遊ぶのが好き。でも体育座りしながら読書で日がな1日過ごすのも好き。「ひとり」を楽しめるということは素敵なことです。

「早く治す」ことのリスク

街場のメディア論 (光文社新書)

街場のメディア論 (光文社新書)

知人の紹介を受け、昨年末からとある治療室(整体)に通っている。普段の生活における動作で、違和感を覚える部位――中学生の頃に部活で痛めた股関節と、2年前に遭った自動車事故(信号無視の車に突っ込まれた!)で痛めた頸椎――の治療のためだ。この治療室のT先生は、独特の治療哲学を持っており、私の体の痛みやゆがみについて、それが起こる理由をさまざまな例えを用いて説明してくれる。T先生とのそうしたコミュニケーションが、治療室を訪れた時の私の秘かな楽しみである。

ある日、T先生からこんな話を聞いた。

この治療室に通う患者さんたちには2種類のタイプがいるらしい。ひとつは、「この痛みを何とかして!」「早く治して!」というような、受動的で消費者感覚が強い<治療依存タイプ>、もうひとつは、「治療を受ける」という行為を相対化し、治療そのものと適度な距離感を保つことができる<自立タイプ>。ちなみに彼から見た私は、後者なのだという。ふうん、と思った。

実際に私がどちらのタイプかはさておき、T先生との会話で思い当ったことがある。

私は若者支援のNPO活動をしているので、その立場上、子育てに悩む親御さん(ほとんどがお母さん)や、悩みがある若者たち(自分で書いていて何だが、悩みのない若者がこの世にいるだろうか?)からの相談を受けることがある。私たちの活動は「居場所づくり」と「学びの場づくり」がメインであって、悩める人びとの相談を受ける専門機関ではない。でも、事実として相談はたびたび受ける。

これまでたくさんの親御さんたちや、悩める若者たちに会ってきたが、彼/彼女たちの中には少なからず、T先生のいう<依存タイプ>がいた。「迅速」に「確実」に「問題解決」をしたいから、そのための「答え」を教えてほしい―――人によって言い回しは違えどこう迫られることが多々あった。もちろん、子育てや生きかたに「唯一無二の答え」があるわけではないので、私にできることは「問題解決にはどんな方法があるだろう?」と、彼/彼女たちと一緒に考えるくらいなのだが。ともあれ、そうした<依存タイプ>の人から相談を持ちかけられる度、私はついつい「あなたの依存体質を改善することが問題解決への近道ですね」などと心の中でつぶやいてしまう。

内田樹(フランス現代思想)の著書に、こんな話があった。

「世の中には「入れ歯が合う人」と「合わない人」がいる。合う人は作った入れ歯が一発で合う。合わない人はいくら作り直しても合わない。別に口蓋の形状に違いがあるからではないんです。マインドセットの問題なんです。自分のもともとの歯があったときの感覚が「自然」で、それと違うのは全部「不自然」だからいやだと思っている人と、歯が抜けちゃった以上、歯があったときのことは全部忘れて、とりあえずご飯を食べられれば、多少の違和感は許容範囲、という人の違いです。」(『街場のメディア論』光文社新書、p.20)

この話は、T先生の持論「患者には2つのタイプがいる」にもつながる話だ。自分の考えかたを変えようとせず、ひたすら周りに依存する人は、永遠に満足することはないだろう。一方で、置かれた環境のもとで試行錯誤をしながら、「ま、こんなもんかな」と自己に折り合いをつけられる人は、――いろんな悩みはあれど――それなりに楽しい毎日を送ることができるにちがいない。

改めて考える。私はどっちのタイプなんだろう。
そして、あなたはどっち?

プロフィール
松井 愛(まつい あい)
山形市在住。若者の居場所と学びの場づくりNPO「ぷらっとほーむ」を運営。
モンテディオ山形をこよなく愛し、春夏秋はバイク、冬はスノーボードに時間を費やす。
大好きな人たちとのおしゃべりがエネルギー源。山形県農産物等統一シンボルマーク「ペロリン」ラヴ!

海のものと山のもの そして、それをつなぐもの

山の形をした魂―山形宗教学ことはじめ

山の形をした魂―山形宗教学ことはじめ

月 人 石 (こどものとも傑作集)

月 人 石 (こどものとも傑作集)

竜馬がゆく (新装版) 文庫 全8巻 完結セット (文春文庫)

竜馬がゆく (新装版) 文庫 全8巻 完結セット (文春文庫)

もうすぐ海が見える、と思うといてもたってもいられない。山道を抜けて一気に浜風が吹いてくると、車の窓を開け放って思い切り風にあたる。風に身体をなぶらせて、ごちゃまぜの思いを吹き散らかす。どんどん軽くなっていく心と身体。いつもこうやってリセットしてきたのだ。故郷を離れるとき、一番気がかりだったのは、自分の生活から海がなくなることだった。
 
自宅から海まで歩いていけるところで育った。通学でも、通勤でも、少しでも海を見られるように、遠回りしたり、わざとシーサイドラインから帰ったり、海を眺めることが日課のようなものだった。白い砂丘を登って見えるその日の海との出会い。ただ海と空しかない広い空間に身をおくと、胸も広々と大きくなる気がして、頭でっかちな思考がちっぽけになっていく。人の匂いがしない空間ってなんてさっぱりするんだろう。世界に自分と、向かい合う海しかない。そんな錯覚に浸るのも楽しかった。いや、そんな錯覚こそが、リアルなことのように感じた。
浜でしか見られない植物に出会えるのもささやかなよろこびだ。浜昼顔のぷりぷりとした丸い葉、群れて咲く浜エンドウの濃い赤紫、秋グミのさびれた朱赤。そして、真冬の風が吹き荒れるただただ茫漠とした砂浜が好きだ。

この間は、夕陽を眺めるために海へ出かけた。春先になると、波打ち際にたくさんの貝が落ちている。からす貝に桜貝、はまぐりや名も知れぬ細かい貝殻たちが、傾いた陽を受けて、波の形にビーズを縫いつけたようにきらきら輝いている。夕凪の優しい色をした海が静かに波を寄せてくる。小さな漁港の防波堤では、釣りをする人のシルエットが浮かび上がっていた。今まで何度こんな夕暮れを浜辺で過ごしただろう。どうしても立ち去りがたく、家族との夕食の時間に遅れるのを気にしながら、夕陽が沈むのを見届けると急いで帰った。

一方、ここ、盆地山形。もくもくと日ごとに盛り上がる新緑のまぶしいこと。山笑う季節の到来だ。
山形に来たばかりの時、図書館の郷土本の棚で見かけた『山の形をした魂』という本のタイトルをやけに覚えている。なんだろう、山の形をした魂って??? 山形での暮らしに慣れ、取り囲む山々の存在が少しずつ自分になじんできた頃に、『月・人・石』という写真絵本と出会った。写真と書がページごとに載っていて、それぞれに谷川俊太郎の言葉が添えられている。その本の中の、あるページを見てはっとした。薄紫色のおにぎりのような山の写真のとなりに力強く「山」の書があり、「かなしみをうけとめてくれるしずかなやま」とある。それを見た途端、じわーっと胸にこみ上げるものがあった。山って、悲しみを受け止めてくれることもあるのか。そんな存在にもなりうるのか。ちょっと新鮮な驚きだった。
山といえばもうひとつ、司馬遼太郎の『竜馬がいく』の中で、竜馬がはじめて富士山を見たときの大好きな場面がある。富士を見て竜馬は「日本一の男になりたいと思った」とつぶやき、「一瞬でもこの絶景をみて心のうちがわくわくする人間と、そうでない人間とはちがう」と続ける。山の姿に自分の志を高くかかげた竜馬の心意気、そのスケールの大きさにしびれたのだ。

 海を見て山を見て、人は何を思うのか。じゃあ、空を見たら何を思うのだろう。昔、まったくぱっとしない地味で陰気な高校生だった頃、湯冷めするのも気にせず夜のベランダに立ってまたたく星々を眺め、「我が内なる道徳法則」や「考える葦」の言葉を胸に思い馳せていた。燦然ときらめく星座は厳しくてゆるぎない硬さをもっている。この硬さの前には何をどうすることもできない。それは無力感というよりも、甘さを許さない超然とした美で、自分を叱咤激励するものである気がした。そういえば山形に来るとき、友人がプレゼントしてくれたのは、宇宙と星座の写真集だった。「とまどい、迷うとき、この本を開いてみるといいよ」という言葉と一緒に。もらった時はよくわからなかったけど、なんて素晴らしいプレゼントなんだろう。ありがとう。そんな人の思いをのせて、今の自分はここにいる。

こんなことをつらつらと思いつつ、春の時間は過ぎていく。泰然とした海にも山にもとうてい及ばない、とりとめのない、でもかけがえのない私の時間が。

プロフィール
古田 茄子(ふるた なす)
山形歴10年あまり。最上川の歴史研究、城山登り、湧き水深訪、そば屋めぐりなど、趣味は山形。植物の名前を覚えるのが得意。オーガニック料理や身体にやさしいお菓子作りにも精を出す。いつか青汁だけで生きていけるよう肉体改造して、仙人になりたいとの野望を秘めている。

おどりこ扇ちゃんがゆく2 「それはせんせい〜♪」の巻

「先生! と元気に駆け寄ってきてくれた女性がある。ああ、扇さんだ。変わっていない」

久々に再会した高校時代の恩師。ブログを始めたので…と恥ずかしそうにおっしゃっていたので覗いてみると、なんと私のことが書いてありました。まるで先生からのお手紙です。そこには本当に久し振りの再会だったこと(卒業以来のことですものね)、私がいかに変わっておらず、いかにすぐ分かったか(お互い様ですよ)などに加え、私たちが高校生だった頃の思い出話がたくさん書いてありました。生まれついての個性派でワル目立ち、小・中学校通して「センセイ」方とはぜんぜんうまくいったためしのない私です。でも、そんなめんどうな子どもをこんなにも愛情深く見つめ、覚えてくれていた先生もいたんだなあと、胸が熱くなりました。

もう一人忘れてはならない先生がいます。それは、現在の日舞の師・T師匠です。T師匠との出会いは、本当にラッキーそのものでした。T師匠がいなければ、日本舞踊とこんなに深いかかわりを持って生活するようになることはなかったでしょう。

T師匠に弟子入りしたのは、大学を卒業して間もなくのことです。出会いは、スタッフとして就職した某・劇団でのことでした。役者さんが舞台に上がるためには、様々な技術や訓練が必要です。T師匠は、そんな役者さんたちの基礎稽古のために劇団へ出稽古に来てくださっていた多くの専門家のうちの一人でした。歌手の三波春夫さんと細川たかしさんを足して二で割り、ちょっと恰幅をよくしたような、豪快でゆかいなおじさん先生です。私は役者ではありませんでしたが、大学の演劇科で日本舞踊と出会って以来大好きになり、卒業してからも何とかお稽古を続けたいなあと思っていました。だから、これ幸いと役者さんに交じってこっそり稽古をつけてもらうことにしたのです。

某・名人に師事し、ご自身もなかなかの踊り手でありながら、T師匠のお稽古は本当におおらかです。当時も「お稽古がしたいのに、お金がなくてできないことほど悲しいことはない」とおっしゃって、本当に安いお稽古代で、一生懸命お稽古をつけてくださいました。おかげで、貧しい劇団員は本当に救われました。仕事が忙しい時には、どんなに休んでも気長に待ってくださいました。着物がない人は、用意ができるまでジャージでいいよ、ということで、ジャージに靴下履きで稽古に通った男性劇団員もいます。発表会なども、できるだけお金がかからないよう工夫して、でもきっちりやらせてくださいました。そんなわけで、劇団員以外にも「やりたい」人が増え、若いOLさんや、一般のおばさまたちもお稽古にいらっしゃるようになり、どんどん輪が広がっていくようになりました。今でも、時々稽古のために上京しますが、未だに毎回お稽古をつけて頂いているんだか、ご飯をごちそうになりにいっているんだかわからないようなありさまで、今に至ります。「出世払いで」と、なんでも遠慮なく頂きますが、本当にいつお返しできるのだろうと、不詳の弟子はいつも頭をかいています。でも、まずは腕を磨いて、しっかりした踊り手になることなのでしょう。険しくも楽しい踊りの道は、まだまだ始まったばかりです。

私も時々「センセイ」と呼ばれるようになりました。私も、子どもたちの心にちょっとでも残る先生になれるのかなあ。なれればいいなあ。そう思いながら、今日もお稽古に向かっています。

プロフィール
扇(せん)
日本舞踊の踊り手として活動する傍ら、子ども向けの舞踊教室やワークショップを主宰。今日は保育園、明日は小学校の課外活動とかけまわる他、老人ホームなどにも出没中。趣味は三味線をひくこと(注 腕前はコント並)と本を読むこと、クラシックを聞くこと。演劇ユニット「TEAM NACS」の活躍と、おいしいごはんが元気の源。

「制服」に見るヤマガタ

宮城から山形に来て、家庭教師を始めて10数年。中高生とかかわってきたなかで考えることや思うことを書いていきたいと思います。今回は、高校生の制服のこと。

まずは男子の制服。山形に来て驚いたことの一つが男子高校生の制服で学ランが多かったこと。自分がそうだったからか、「中学で学ラン、高校でブレザー」というイメージがあったので、学ラン姿の高校生はとても新鮮なものに見えました。宮城でも、仙台市内の進学校のなかには男子学ランという高校もあったかもしれないけれど、そちらの方面には友だちもいませんでしたし。
シャツを出すな、ボタンを閉めろと言われつつ、それでも、そのままちゃんと着るのはイヤだという感覚は今も昔も大差ないのかもしれない。ボタンを開けて、シャツを出して、ズボンを下げて、などなど。最近、短ランを好む男子もいるらしく、少し驚いているところ。

次に女子の制服。男子と違い、女子の制服は高校ごとに特色があります。セーラーかブレザーかの違いもあるし、学校ごとで型が違う。なので、3月に新聞折り込みに入ってくる「制服承り会」の写真も女子のものが多くなってしまい、男子の制服写真はおまけ程度の扱いで物悲しい。ここはひとつ男女平等(?)に「男子用セーラー服」と「女子用学ラン」を作っていただきたい。そうすれば男女両方の制服が掲載されることになりますし。でもまぁ、作ったところで男子用セーラー服は売れないだろうなってことは予想できてしまうのだけれど。

女子の制服で大人側から問題視されるのがスカートの長さ。中学までは膝下だったスカートの長さが、高校生になるとまくって膝上に。切ってからまくって調整したり、まくりにくくなっているスカートでも頑張って短くしたりと、なかなか苦労しているようで。脚を出しつつ、脚の太さを気にしつつ、それも関係してか、最近ルーズソックスを履いている子もいるらしい。自分が高校生のときに女子のほとんどが履いていたルーズソックス。もうすでに消滅したと思っていたのに。ルーズソックスにポケベルにピッチ(PHS)…懐かしい。

高校生にとって憂鬱なのが学校で行われる「頭髪・服装検査」。この「頭髪・服装検査」についての個人的意見を書いておこうと思います。

検査の程度に関しては、緩い高校もあれば、厳しい高校もあり、学校差が大きい。厳しいところでは、ボタンを閉めろ、シャツを出すな、スカートが短い、リボン・スカーフをちゃんとつけろ、髪を染めるな、などチェック項目は多岐にわたる。外向けの学校の印象、学校内の秩序や教師の威厳の保持のためなど、検査して直させる理由はあるのかもしれない。だからといって、彼ら彼女らの表現の自由と自己決定権をないがしろにしていいわけではない。制服の着方には理由や思いが込められている。ふつうがいい、ふつうはイヤ、みんなと同じじゃないと不安になる、よりかっこよく、よりかわいく、異性や同性の視線を気にして、こういった様々な思いを一人ひとりが抱きながら制服を着ている。それを理由も聞かずに否定して、「どんな格好をすべきか」という規範の強制によって潰していいわけがない。入学時15〜16歳で「子ども」である高校生は、在学中に18歳になり、「子ども」ではない存在になる。そんな彼ら彼女らに必要なのは、自分が納得していないルールに対して黙って従う「素直さ」ではなく、自分はどういう格好をしたいのかという選択への自覚だと思う。怒りまくって、怒られまくって、生徒も教師も疲れるだけの「頭髪・服装検査」はもう終わりにしよう。

以上、高校生のあいだ着ている時間が最も長い服であり、学校卒業後はなかなか着る機会のない制服のお話でした。

プロフィール
松村勇気
1979年生まれ、宮城県多賀城市出身。大学卒業後に宮城県に戻るつもりだったのに、家庭教師を続けたくて、そのまま山形生活を継続中。趣味は献血。愛車にも献血キャラクター・愛の妖精「けんけつちゃん」のチッチを乗せています。「けんけつちゃん」は可愛いと思うのですが…。